あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。 (出エジプト記20章7節)
十戒の第3戒です。難しいのは「みだりに」の理解です。主の名をみだりに唱える、それはどういうことでしょうか。みだりに=虚しいことのために、となります。熱心なキリスト者は、主を呼び主の名前を繰り返し口にします。それは、いけないことなのでしょうか。そうではありません。回数ではなく、主の名を唱える時の目的が問題なのです。目的が悪ければ、一回でも唱えてはならない、と言うことです。それでは、「虚しいこと」とは何でしょうか。
⑴裁判の時の偽証。
裁判での証言の前に、「主の名前に於いて真実を言い偽りは言いません」と誓いながら、偽証をすることを意味します。事実と違うことを口にしながら、「主の御名によって、私は偽りを言っていません」と、主の名を隠れ蓑に用いることを指します。今も、それと同じことは有り得ます。
⑵魔術や占いをすること。
主の名前を使って、それらをすることが有り得たのです。主の名を唱えて、その主の名に現わされた力を自分の物にしようとすること。そんなことをする人がいたのでしょう。
「みだりに」とは、神の名の用い方を、根本的なところで間違ってしまうことです。そもそも何故、主の名を呼ぶのでしょうか。主が、それを求めておられるからです。「わたしを呼べ」(エレミヤ33:3)と言われているからです。親しい関係では、名前で呼びかけるからです。創世記4章26節:彼はその子にエノシュと名付けた。主の御名を呼び始めたのは、この時代のことである。エノシュ=人、の意。自分の弱さ、罪深さを覚える人は主の御名を呼ぶ=祈るのです。アブラムは、行く先々で「主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ」(創世記12章8節)のです。どのような名前で呼んだのかは、書かれていませんが、主を礼拝したのです。それに倣いたいものです。
神の名は、イエス・キリストという具体的な名において、私たちの歴史のただなかに置かれました。いつでもどこでも共に居てくださるお方として、私たちは主イエス様の名を口にし、「主よ」と呼びかけます。