神を知らない人々は皆、生来むなしい。
彼らは目に見えるよいものを通して、
存在そのもの である方を知ることができず、
作品を前にしても、 作者を知るに至らなかった。 (知恵の書13 章1節)
五十嵐健治兄は19歳の時、中島佐一郎兄によって信仰に導かれたのですが、その2人の会話です。
「中島さん、わたしは毎朝太陽を拝んでいるのですが神様のお創りになったものを拝むのは、別に悪いことではないでしょう。」すると中島兄は首を横に振って「太陽は創られた物質です。天地を創られた神以外を拝むのは、偶像崇拝といって、キリスト教では最も厳しく禁じられています」と言われた。私は思った。(そうか、天地を創られた神以外は、決して拝んではならないのか、これまで知らぬこととは言いながら、故郷のあの樹齢3千年の欅(けやき)の木に手を合わせていたことが思い出された。) 考え込んでいると、
中島:君は人から提灯(ちょうちん)を借りて、暗い夜道を歩いて無事に家に帰った時、提灯にお礼を言いますか
五十嵐:いいえ、貸してくれた方に感謝します。
中島:そうです。それと同じことです。日光の恵みも、雨の恵みも、太陽に感謝したり、雨に感謝したりするのではなく、それらを創られた神に感謝することが大切なのです。・・・・ところで健治君、君は人間をどのようなものだと思いますか。
五十嵐:はい、万物の霊長だと思います。
中島:世間の人は皆、そのように言います。しかし私たちは、人間とは罪深いものだと思っております。
五十嵐:人間全部が罪深いのですか。悪い人もいますが、善い人だっております。
中島:確かに世の中にはいい人がいます。親切な人がいます。しかし、どんなにいい人でも、その心の中に創造主なる神を見上げなければ、それは罪人です。それを例えれば、お父さんが家に居る。だが、その子が朝夕何の挨拶もせず、語りかけても知らんふりをしていたとしたら、これは無礼者、親不孝者です。同様に真の神が居られるのに、他の神々には手を合わせても真の神には、一度も手を合わせないとしたらどうですか。それが偶像礼拝の罪なのです。(『夕あり朝あり』より)
五十嵐兄と中島兄の会話は、三浦綾子姉が健治兄から聞いて書いたと思われます。中島兄は伝道者ではなく、各地を回る商人でしたが、聖書に精通していました。
冒頭の聖句は、偶像崇拝の愚かさを的確に言い表しています。