あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない。 (出エジプト20章3節=第1戒)

 十戒は、神がモーセを通してイスラエルの民に命じたものです。その第一の戒めが上記の御言葉です。「あなたがた」なのですが「あなた」と言われています。それと、戒め=禁止と受け取りがちですが、そうではなく、「あなたは~をしないとの信頼の言葉でもあるのです。あなたには、わたしのほかに神はいない=あなたは、わたし以外の神を信じることはない、との信頼が込められているのです。理由は単純です。他に信ずべき神は存在しないからです。ですから、これは戒律ではなく、当然のこととして確認する言葉です。その意味で十戒は、戒律として私たちを縛るものではなく、そこからの自由を与えてくれるものなのです。

聖書の神は唯一の神で、他の神を認めないから狭量だよね?いいえ、違います。十戒という戒律で縛り、自由を奪っているよね?いいえ、違います。ルール(規則)は自由を束縛するためではなく、秩序を保つためにあります。秩序は保護するためにあります。例えば、小学生が元気に外で走り回って遊ぶとき、彼らは帰る場所の心配をしていません。それぞれの家庭という「帰るべき家」があるからこそ、外で自由に遊べます。私以外の神を信じてはならない→あなたの帰るべき家はここだから、他の家に行ってはなりません。これは束縛ではなく、健全な保護の言葉です。第1戒で「私があなたの神だ。他にはいない」と宣言するのは、父や母が子どもに「ここがあなたの家だから、寝る場所を探して歩き回ることも、不安に思うこともないんだよ」と言うのと同じです。ある意味、当たり前のことです。

人間は不完全ですから、人間の親も子に対して不完全です。でも神は、そうではありません。親は八百万(やおよろず)もいません。父と母だけです。神に性別はありませんから、親としての神は一人です。他には居ません。その神を父と呼ぶのは、母を内包しての父です。聖書の神は母のように「産みの苦しみをされた神」(申命記32:18)です。私たちが神を忘れることがあっても、神が私たちを忘れることは決してありません。そして、ご自分のひとみのように守ってくれるのです。それなのに私たちは、本当の神から目を背け、目に見える神々を求めてしまうのです。それが罪ですが、そんな私たちに十戒は語りかけています。