殺してはならない。           (出エジプト記20章13節)

 第6の戒めです。人を殺してはいけないことは、敢えて命じられなくても既に分かっています。でも、どうして殺してはいけないのか、と問われたら、どのように返答したら良いでしょうか?
具体的な問題で考えます。

⑴自殺。自分の命を自分で断つのが自殺です。そこに至るには、様々な要因があると思われます。いずれにしても、自分の命は自分のものだから、自由にできると考えがちです。しかし、そうではありません。命は神のものですから、自殺も殺人になります。

⑵戦争。国と国、部族と部族の間で戦争が起きます。戦争に赴くとは、敵を殺すことになります。そのため信仰の故に、兵役そのものを拒否するキリスト者がいます。死にたくないからではなく、敵であっても同じ人間を殺したくないからです。国民として国の命令に従うべきか、神の言葉である十戒に従うべきかのいずれかを選ばねばなりません。鈴木善七兄は、直接殺戮に携わらないようにして下さいと祈り、炊事班に回されたと言います。戦争の問題は、聖書をどう読むかにかかっていますが、いつか取り上げたい問題です。

⑶妊娠中絶。どのような理由であれ、受胎した命は命です。親の都合で堕胎しなければならないとしても、神から与えられた命を殺すことになります。神を畏れねばなりません。出エジプト1章:ヘブライ人に男の子が生まれたなら、その赤子を殺せ、とエジプト王は助産婦に命じました。しかし、彼女たちは神を畏れていたので、王の命令に従がいませんでした。

⑷安楽死。治癒の望みない病人などを、安楽死させるべきか否か。森鴎外の『高瀬舟』は、この問題を取り上げています。介護の看取りとも関わってきます。

⑸死刑。人の命を奪った者は、自分の命をもって償うのが原則ですが、そう簡単には割り切れないのです。

十戒「殺すな」のヘブライ語は、聖書には数回しか出て来ず、上記の⑵と⑸には使われません。どのような場合に使われているかと言えば、個人的な恨みによる恣意的な殺人、共同体の生活を危険に陥れる殺人の場合に用いられています。いずれにしろ、いきなり殺人を犯すことは考えられません。主イエスは山上の教えでこの第6戒を取り上げ、殺人に至る心の中の問題を問いかけています。次回、続けて読んで行きます