従って、ふさわしくないままで主のパンを食べたり、その杯を飲んだりする者は、主の体と血に対して罪を犯すことになります。 (Ⅰコリント 11章27節)
私たちが毎主日、行っているパン裂き(聖餐式)にあずかる心構えが記されています。冒頭聖句の、「ふさわしくないまま」とは、どういうことでしょうか。
ご夫婦で熱心に礼拝に通っておられる方の例です。ある主日の礼拝で、聖餐にあずかろうとされません。礼拝に出かける前、夫婦喧嘩をして暴言を吐いてしまったとのこと。自分は受ける資格がない、と自己判断されたとの事。これは誠実な態度でしょうか。28節に,「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」とあります。自分をよく吟味した上で、その資格は無いと判断したら、与るのを止めなさい、とは言われていません。むしろ反対で、食べ飲むべきです、とあります。自分は相応しいか、そうでないかと自分を見つめたら、誰もがふさわしくありません。また、その時の気分や行いで決める問題でもないのです。そもそも杯が示す主の血は、罪が赦されるために、すべての人のために流されたものだからです(マタイ26章28節)。ですから罪を悔い改めて、パンと杯に与(あずか)るべきなのです。つまり、受ける資格がないことを自覚した上で、受けなさいと奨められているのです。それが新しい契約(新約)なのです。古い契約(旧約)は、資格がない者は与れません。そこが、旧約と新約の大きな違いです。
コリントの教会と同じ状態は、今の集会・教会では考えられません。愛餐と聖餐が明確に区別されているからです。いずれにしろ、主の体と血を示すパンと杯は命そのものです。十字架の上で私たち罪人の身代わりとなって、神の怒りと呪いを受け取られた贖いを表しています。そのことを考えないで与ることが、ふさわしくないと言われているのです。31節:わたしたちは、自分をわきまえていれば、裁かれはしません。自分をよく確かめ、自分をわきまえるなら、罪の悔い改めなしに主の御体と御血に与ることはできません。♪いかなる恵みぞ かかる身をも 妙なる救いに 入れ給うとは♬(礼拝賛美歌476番)。主が差し出してくださる御自身の体と血は驚くべき恵みです。自分はふさわしくないと判断して、なお受けるべき恵みなのです。