わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。(Ⅰコリント9章19節)

水や油などの液体は、入れられる容器の型に応じて自分を変えられます。ところが、固形物は自分と同じ型としか順応できません。これは人間に例えたものです。伝道はパウロは、自分の型に固執しない液体のようになると言っています。誰にも隷属しない自由な者ですが、すべての人に仕える奴隷に自らなりました。それは、一人でも多くの人を得る(キリストのものとする)ためなのです。

ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。(9:20

ユダヤ人=ユダヤ教で、パウロはその典型でした。しかし今は、律法規定から解放され自由にされています。律法に支配されると、食物規定や安息日規定を守らない者を裁き、断罪します。ファリサイ派がそうでした。前回記した、強い人と弱い人の問題は律法に関するものでした。自分はそうではないが、相手を尊重して裁かないのです。相手を理解するために相手の靴をはいてみる、と言い換えられるかも知れません。

律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。(21節)

これは異邦人に対しての言葉で、パウロ自身は神の律法、今はキリストの律法である福音に従っているのですが、律法を持たない異邦人のように生きているのです。ユダヤ人から非難されたとしても、そうしました。また、弱い人に対しては、弱い人のようになったのです。弱い人を得るためです。更に言います。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです(22)そして、福音のためなら、わたしはどんなことでもします(23節)と言いました。何人(幾人)かでも救うためなら、自分の自由を放棄しても惜しくない(そこまでしても数人を救えるかどうか、伝道はそれほど難しい)との思いが伝わってきます。そして、圧倒されます。自分とは違っていても決して裁かず、その人の型に自分を順応させるパウロの在り方の真意を理解したいものです。