尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。(ローマ12章10節)
何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考えなさい。(フィリピ2章3節)
どうしたら、相手を優れた者、しかも自分よりも優れた者と思えるでしょうか。それには、へりくだる謙遜さが必要です。しかし、どんな人に対しても自分より優れた者と思うのは、簡単ではありません。心のどこかで、自分の方が上と思いたいからです。
よく言われることですが、謙遜な人は誰からも好かれます。反対に、自惚れの強い高慢な人は嫌われます。それだけではありません。人の心の高慢は破滅に先立ち、謙遜は栄誉に先立つ(箴言18章12節)のです。謙遜は祝福と栄誉を受ける道ですが、高慢は破滅に至る道なのです。
謙遜は、一般的にも、「実るほど頭(こうべ)を垂れる稲穂かな」と言われています。実が熟した穂は自然に頭が下がり、実のない穂ほど頭が高いものです。そして、「頭を垂れる」には「相手を敬う」という意味があり、この言葉自体にも「立派な人間ほど相手を敬うことができ、謙遜である」という表現が当てはまります。人間性が深まるにつれ、人は謙虚になります。また、仕事のできる人ほど謙遜です。自分を低くするので、どんな相手に対しても敬う気持ちが持てます。少なくとも、人を馬鹿にしたり見下げたりはしないものです。上から目線で話すこともしなしのです。
偉大な神学者であったアウグスティヌスは、弟子から「キリスト教の徳目で一番重要なものは何ですか」と尋ねられて、「それは謙遜」と答えました。更に、「では二番目は何でしょうか」と問われて、「二番目も謙遜」」と言い、「一にも二にも三にも、重要なのは謙遜」と教えました。人としての生き方に於いても、一番大切なものは謙遜です。
謙遜を学びたいと願います。すぐ高慢になりやすいからです。では、誰から謙遜を学べば良いでしょうか。最も謙遜な人からです。イエス・キリストほど、それに相応しい御方を私は知りません。神であるのに人となって、ご自分を無にして仕える僕となり、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順であった御方。まさに謙遜の模範です。(2021年11月12日)