王はその律法の書の言葉を聞くと、衣を裂いた。(列王記下22章11節)
上記の王とはヨシヤ王です。衣を裂いたのは、衝撃を受け、悔い改めたからです。それはヨシヤ王の治世第18年のことで、王は26歳。神殿の中に埋もれていた律法の書が発見され、王の前で読み上げられました。読み上げられた書は、申命記の一部分でした。恐らく28章以降だったと思います。そこには、神の祝福と呪いが記されています。もし、主の御声に聞き従い、律法の書を忠実に守るならば祝福される。反対に、もし聞き従わず、律法の書を忠実に守らないなら呪いが臨むのです。そして祝福は1~14節まで、呪いは15~68節まで記されています。呪いの方が4倍も多いのです。そうならないようにと警告するためですが、その内容は日常生活の微に入り細に入っています。その中に、「主は、疫病をあなたにまといつかせ」(21 節)があります。新型コロナ・ウイルスも疫病の1つです。そうした災禍が、神の呪いとして下されるとの警告です。
さて、このことを踏まえて、古い契約(旧約)と新しい契約(新約)の決定的な違いについて考えます。
旧約聖書には、救いのために与えられた律法を最後まで守れなかったこと、そのため神の呪いを受け、神の民の滅びたことが記されています。聖書の神は、たとえご自分の民であっても、依怙贔屓(えこひいき)せず滅ぼす神です。そこに神の義が示されています。勿論、滅びで終わるのではありません。神は御子イエス・キリストを人間として地上に遣わされ、私たちが受けるべき呪いの身代わりとされました。「キリストは、わたしたちのために呪いとなって、わたしたちを律法の呪いから贖い出してくださいました」(ガラテヤ3章13節)。それが主の十字架です。神に捨てられ呪われた十字架の死という犠牲を払われたキリストを信じる者は、救われ祝福されます。決して呪いは臨みません。
人間の側の何かを根拠にするのが律法ですが、キリストの側の犠牲と愛を根拠にするのが福音です。私たちはその福音によってこそ救われ、祝福されています。冒頭の聖句は、ヨシヤ王が律法に違反し呪われる状態にあることを知って、思わず衣を引き裂いたことを示しています。旧約時代は、そうするしかありませんでした。しかし新約時代の私たちは、衣を裂きつつ十字架のキリストを仰ぎ、溢れる感謝を献げます。