十二使徒の名は次のとおりである。まずペトロと呼ばれるシモンとその兄弟アンデレ……徴税人のマタイ、アルファイの子ヤコブとタダイ、熱心党のシモン、それにイエスを裏切ったイスカリオテのユダである。          (マタイ 10章2~4節)

 使徒である12弟子の名前が記されていますが、特に下線部には、対立要因が見られます。熱心党は政治的党派として、AD6年頃にガリラヤ人のユダによって創設されました。急進的で熱狂的なユダヤ愛国主義者でした。彼らが最も嫌ったのが徴税人でした。ユダヤ人でありながらローマの手先になっていたからです。主は、水と油のような2人を弟子として選びました。どのような対立や反目があったとしても、主は一つに結ばれるからです。

その他に、サドカイ派(ユダヤ教の一派)がいました。彼らはローマの法律をそのまま受け入れ、ローマに支配されていることを良しとしました。それに対してパリサイ派(ユダヤ教の一派で、律法をどこまでも厳守したので、律法主義者とも呼ばれました)は、政治に関しては無関心で、ただ律法への服従を強調しました。エッセネ派(ユダヤ教の一派)は農業を中心にした共産的共同生活を営み,脱世間的生活をしていました。したがって、政策を掲げて活動していたのは、熱心党だけでした。熱心党は、実力行使と戦争のみによってユダヤ人は解放される、と信じていました。彼らは、マカバイ記の時代(BC167年頃)のように戦って自由を勝ち取ろうとしました。ローマの圧政からの解放を武力で成し遂げようとしていました。ユダヤはかつてダビデやソロモンの時代、王を持つ独立国家でした。その時代を再現すべく、熱心党は活動していたのです。聖書には直接的な記述は見られませんが、遺跡として必ず訪れるのが「マサダ要塞」です。ここは、熱心党が勢力を増して占領しました。AD66-70年です.更には、エルサレムまでもローマ軍の支配から奪還しました。しかし、遂にはローマ軍の猛攻に遭い、全滅し、マサダも陥落します。主イエスは「剣を取る者は剣で滅びる」と言われた。ローマ支配からの政治的な解放ではなく、罪からの解放を主は第一とされ、王になることではなく、苦難の僕として十字架で死ぬ道を進まれました。それは、剣を取って戦う「マサダへの道」ではなく、愛と赦しを説く聖書を実現する道こそが、私たちの進むべき道だからです。対立と争いの要因があっても、キリストによって一つに結ばれる道です。