剣を取る者は皆、剣で滅びる。  (マタイ26章52節)

 これは主イエスの言葉。主は、「」と言われました。善い剣の使い方と悪い剣の用い方の間に区別はありません。剣を用いる=武力という暴力を用いれば、暴力は暴力~それ以外の何物でもない~を生みます。相手から打たれたら、やり返すのが常です。そして、やられないために国家は武装します。植民地主義者の暴力は反植民地主義者の暴力を生み、それは、今度は植民地主義者の暴力を上回ります。そして、ひとたび暴力を使い始めると、そこから抜け出すことは出来なくなります。だから、主は「皆」と言われたのです。そのことは、これまでの世界歴史が証明しています。武力で勝ち取った国家は、同じように武力で滅ぼされています。例えば、北イスラエルを滅ぼしたのはアッシリア帝国でした。そのアッシリアを滅ぼしたのがバビロニア帝国、それを滅ぼしたのがメディアとペルシア帝国…。歴史は、その繰り返しです。イエス在世時はローマ帝国が支配していました。

イエスは、人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりまた山に退かれた。                  (ヨハネ6章15節) 

ユダヤの民衆がイエスに求めたのは、王となってローマ帝国の圧政から救ってくれることでした。しかし、主は武力を用いてローマを倒す政治的な救いではなく、根本的な問題である罪からの救いを与えようとしました。そして、人の上に立つ王ではなく、人に仕える僕となる謙遜の道を歩まれました。十字架の道です。そのことにユダは失望し、裏切った可能性があります。勿論、それは推測に過ぎませんが、民衆が「十字架につけろ!」と叫んだ背景にも、イエスへの失望が読み取れます。たとえどのように受け止められようとも、主イエスの御国は、この世の王国とは決定的に異なります。右の頬を打たれたら殴り返すのではなく、左の頬を向ける在り方です。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈るのです。そこに神の国があり、そこに平和が生まれます。軍馬ではなくロバの子に乗る王、屈んで人の足を洗う僕となられる主こそ、真の王の王、主の主です。聖書が告げるのは、このキリストの王国がやがて地上に実現することです。戦禍が絶えない今、そのことを切に祈らずにはいられません。