2026年8月2日
主日礼拝

 マタイ315節:「今は止めないでほしい。正しいことをすべて行うのは、我々にふさわしいことです。」   バプテスマのヨハネが、罪の悔い改めを迫り、多くの人に洗礼を授けている所へイエスさまがおいでになり、ご自分も洗礼を受けたいと言われた。でもヨハネは、本来、罪のない神であるイエスさまには罪の悔い改めなど不要だと、思い留まらせようとした。そのときイエスさまが言われたお言葉が掲題の聖句だ。自分の罪を認め、悔い改めた証しとして受けるのが洗礼だ。イエスさまは罪のないお方だから、洗礼は必要はないとのヨハネの判断は尤もに思える。イエスさまはなぜ、受けようと思われたのか、示されたことをお分かちしたい。まず、イエスさまが言われた「正しいこと」とは何か。当時の宗教指導者は律法を行うことだと考えたが、イエスさまは父なる神さまの御旨に忠実に従うことが「正しいこと」だと言われたのだ。イエスさまは私たちと同じ人間の姿をとり、この世においでになったばかりか、私たちと同じ罪人の一人としてこの世で生きることを宣言されたのだ。このことをパウロは、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分となり、人間と同じ者になられました」(フィリ2:6)と語っている。イエスさまはこのことの証として洗礼を受けられたのだ。だから、受洗して水から上がられると、神の霊が天から降り、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という神さまの御声が響き渡った。イエスさまは公生涯を始めるに当たって、ご自身が罪人と同じところに立つという宣言をされたのだ。これが私たちを愛された神さまの御旨だったからだ。 (人見)

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2026-08-02 人見兄)