アブラハム:執り成しの祈り(創世記18章16~33節)

アブラハムは答えた。「塵あくたにすぎないわたしですが、あえて、わが主に申し上げます。もしかすると、50人の正しい者に5人足りないかもしれません。それでもあなたは、5人足りないために、町のすべてを滅ぼされますか。」主は言われた。「もし、45人いれば滅ぼさない。」            (創世記18章27、28節) 

アブラハムは神がソドムの町を滅ぼされることを知ると、その町の中にいる正しい者のために祈りました。「町の中に正しい者が50人いるなら、45人いるなら、40人いるなら、30人いるなら、20人いるなら、そして最後に10人いるなら、その者たちの為にソドムとゴモラを滅ぼさない」と神は言われました。アブラハムは執拗に、執り成しの祈りをしています。

上記の聖句下線部に注目します。塵・芥にすぎない私ですが、と言っています。とも訳されます。人は土の塵で造られ、死ぬ時は塵に返る、はかない存在です。だから、「私は塵から造られた被造物にすぎず、何の誇りもありません」と、言っているのです。そのような者が、執拗に願い続けます。神に聞いていただける資格など何も持ち合わせない私ですがと、へりくだって祈り続ける姿が見えます。

私たちも執り成しの祈りをしますが、アブラハムのような姿勢でしているでしょうか、と問われます。ともすると自分のことには執拗に祈りますが、他の人のためにはここまで祈るでしょうか。或いは、祈れば神は当然聞いてくださると、思っていないでしょうか。誰か偉い先生に祈ってもらうと祈りは聞かれると思いがちです。そうではありません。塵や芥として捨てられて当然の者の祈りなど、神はお聞きにならないかも知れませんが、それでも・それゆえ祈るのです。祈りは神の憐れみと恵みのゆえに届くのです。アブラハムのような低い心と、それを表す冒頭の言葉で執り成しの祈りをしたいものです。
アブラハムが信仰の父、偉大な族長だから、祈りが聞かれるのではありません。むしろ反対です全く取るに足りない塵や芥、灰にすぎない者ですが、それでも祈らないではいられないのがアブラハムでした。その祈りには、何度でも神に食い下がる執拗さがありました。それに倣いたいもの。