2026年7月5日
主日礼拝

エレミヤ書35章19節:それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。レカブの子ヨナダブの一族には、わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶えることがない。 レカブ人は父祖ヨナダブが何を考えていたのかわからなくても、ヨナダブが命じたからというだけの理由で従い続けました。神と人との関係も親子関係と似た所があります。人には神の考えがある程度しかわかりません。わからなくても従うのが信仰です。それを学ばせるために、主は人に夫々の親を与えられ、父母を敬えと命じられました。私たちにも夫々の親や信仰の先輩がたがいます。彼らはいろいろなことを私たちに命じました。夫々の家庭にいろいろな決まりごとがあり、その中には私たちには意味がわからないものもあります。しかしそれでも、先に主の前に立って仕えた彼らを敬い従うとき、あなたたちは絶えることがないという約束が実現します。       (中山C)

②ヨハネ4章20~24節:サマリアの女は5人も夫がいた過去を抱えたまま、礼拝とその場所に話題を移します。それに対してイエスは「婦人よ、私を信じなさい。この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る」と語られ、更に、「まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられる」と言われました。霊=聖霊、真理=御言葉。この女性は隠したい恥や弱さの現実の中で、救い主に向き合いました。それが礼拝です。そうした霊と真理をもって献げる礼拝を私も求めて来ました。しかし礼拝で、いつも魂が満たされ、感動するとは限りません。そんな現実があっても、求め続けます。
ブラザー・ローレンスは厨房での仕事中も、礼拝の時と同じく主の臨在を覚えました。そのように聖と俗を区分せず、スーパーで買い物をする時も、主を覚えたいものです。       (浜田)

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2026-07-05 中山C兄、浜田兄(13:00))