2026年5月3日
主日礼拝
①イエスは幼子の頃から、モーセの律法を忠実に守り行っています。ルカ2章39節:親子は主の律法で定められたことをみな終えたので、自分たちの町であるガリラヤのナザレに帰った。福音書にはイエスが律法を大切にしている姿が度々記されています。荒野でサタンの誘惑を受けた時も、律法のうち申命記を引用して退けました(申命記8:3、6:13、6:16)。律法は、人が神に近づく道です。しかし、人は律法を一つとして守り行うことはできません。そこでイエスが人として来て、律法を全て守り行ったうえで私たちと一つになってくれたので、私たちも律法によって義と認められ、恐れずに神の前に出ることができるようになりました。イエスは人が神に近づく道、まことの律法です。 (中山Y)
②ヨハネ2章3節:母がイエスに「ぶどう酒がなくなりました」を言った。カナの婚礼で客に出す酒がなくなりました。母はイエスに困窮だけを伝えます。~しなさいとの要求や願いは何もしていません。主を信頼して委ねます。するとイエスは「水がめに水を満たしなさい」と召使いに言いつけます。言われた通りにすると、水は最高のぶどう酒に変化しました。それに気づいたのは水を満たした召使いだけ。これがイエスが行った最初のしるしです。私たちの人生にも、ぶどう酒がなくなる時があります。そうした現実に遭遇しますが、そのような時、母マリアのように先ず主イエスの許に行き、困窮の事実だけを告げ、後は主に委ねます。これが難しい。石の甕の水は旧約の律法→ぶどう酒は喜びと人の欠乏を満たす新約の福音。イエスのしるしは、低くへりくだった僕(召使い)にだけ分かります。その水を汲む低い召使いでありたい。「私の時はまだ来ていない」と言われたイエスは、いつも父神の時と御心を思い、十字架を目指していました。私たちの時も、すべて神のご計画の中にあります。 (浜田)
礼拝讃美歌327番:われの時は 御手にぞある 刺されし御手もて 我を守る。
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2026-05-03 中山Y兄、浜田兄(9:00))
