2026年4月12日
主日礼拝
①ヨハネ1章1節:初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった。著者ヨハネは、これを読む者が「イエス様を神の御子で救い主だと信じて、救われて永遠の命を受けるために」書いてくれた(ヨハネ20:31)。ヨハネは既に他の三つの福音書を読んでいて、キリスト教がユダヤ以外の世界に伝道される時代となっていることを熟考し、イエス様の事を、ユダヤ的表現のメシア、キリストの代わりに「言(ことば)」と表現した。イエス様が示して下さる父神様は「多くを語り、おこなって下さるお方」だ。神様は一切をご支配なされ、天地万物を創造され、全ての人を愛して「私の下に帰って来なさい」と招き続け、いつも信仰者と共にいて導き励まして下さっている。お恵みにより神様を信じる信仰を与えられ、聖書、神様の語られる「ことば」により益々深く神様を知り、喜びにあふれて、この世の旅路を歩む信仰者の幸せを思う。 (北原)
②マタイ24章36節:その日、その時は、だれも知らない。子も知らない。ただ、父だけがご存知である。神のご計画に秘められた主の再臨はいつか分からない。だから、目を覚ましていなさい、と弟子たち(すべての人*マルコ13-37参照)に教え、警告されています(24-25章)。その譬えの厳しさにたじろぎますが、10人のおとめの譬えで賢い(目を開けているの意)娘も待ちくたびれて眠ってしまった話の意味を考えました。花婿(主)を迎える花嫁の友(信徒)が灯火(信仰)を保ち整える油(聖霊)を用意しているかが問われていて、信仰は神から与えられた聖霊によって灯され、心に内住する聖霊に導かれて整えられる故に、人に分けられない。各自が聖霊の助けを祈り聖書を学ぶことの大切さを思う。すべての人を滅びから救うため、十字架の死を前にした主は、激しい愛をこめて主の愛に生きる忠実な生き方を求められた、と思います。主を待つ心は主を愛し慕う心です。 (柴川)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2026-04-12 北原兄、柴川姉(16:00))
