2026年3月29日
主日礼拝

ヨハネ1930節:「成し遂げられた」との言葉を遺してイエスさまは息を引き取られた。この言葉はギリシア語で「テテレスタイ」という商業用語で、「支払い済み」を意味しているのだそうだ。そのことから私は二つのことを教えられた。その一つは、イエスさまが支払ってくださった代価の大きさだ。(イザ43:4)に「あなたは値高く」とあるが、イエスさまは私をサタンの手から買い取るために全世界のすべてにも勝る高価な命を支払わねばならなかったのだ。このことを知れば、イエスさまの愛の大きさを、翻って礼拝讃美歌116の通り、わが罪の大きさを知ることができる。二つ目は、代価を支払ってもらった以上、私はイエスさまのものとしていただいたのだ。もう他の誰の手にも渡されることはない。私たちには「この者の代価は支払い済み=私のもの」というイエスさまの札が付けられている。なんとうれしいことではないか。   (人見)

詩編118編22~25節受難主日を迎えました。イエスさまがエルサレムに入城すると、人々は「ホサナ」と叫んで歓迎しました。しかし、歓声は長く続かず、 数日後には「十字架につけよ」の叫びに変わります。22節「家を建てる者の退けた石が、隅のかしら石となった。」人から退けられた石。ところが神はその石を無くてならない隅のかしら石にされました。それが受難のイエスです。侮辱され、鞭打たれ、茨の冠をかぶせられ、群衆は「この人を殺せ」と叫びます。しかし、人が捨てた石を神は救いのかしら石とされました。そして救いは十字架で成し遂げられました。神のなさる業は、人の目には不思議に見えます。詩編118編は主の十字架を預言しています。私たちも人から退けられたように思えても、そこに神は働かれます。だから私たちはどんな時にも「主の恵み、慈しみはとこしえまで」と告白して歩むことができるのです。      (浜田)

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2026-03-29 人見兄、浜田兄(21:30))