2026年3月1日
主日礼拝
①私たちが何かしなければと思っている間は、キリストの力は働いたとしてもキリストの復活の力(フィリピの信徒への手紙3章10-11節)が働くことはありません。自分がどこまでも無力で何もできないとわかるときに、キリストの復活の力が働き始めます。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ。(ヨハネによる福音書12章24節)私たちの問題は、私たちが弱くて力不足だということではありません。私たちがまだ強すぎ、何かしようとするので主が十分に働くことができないことなのです。自分が全く役に立たないとわかれば何かしようとしなくなるでしょう。以前姉妹が、私たちはたとえ話の中のこじきのラザロのようなものだと仰いました。彼は金持ちの門の前に運ばれて横たわっているだけです。死んだも同然であり、何の活動もできません。私たちもそのラザロのようなものだとわかればキリストの復活の力が働きます。 (中山C)
②ヨハネ3章30節:「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」洗礼者ヨハネの言葉で、信仰が示されています。第一:キリストが栄えなければならない。「栄える」とは、大きくなることです。救いは、キリストにこそあるからです。第二:私は衰えねばならない。人は大きくなり、認められたいと思います。しかしヨハネは、私は衰えるべきだと言いました。それは、ヨハネがどんなに偉大であっても、救い主ではないからです。人は弱く限界があります。だからむしろ、私たちは衰える必要があります。救いは、私の中でキリストが絶大となり、自分が小さくなることだからです。ある人は、「自分が小さくなるなんて悲しい」と。そうではありません。本当の自由が、そこにあります。なぜなら、自分で自分を支える必要がなくなるからです。キリストがあなたを支えてくださるからです。 (浜田)
礼拝讃美歌38番:いとも尊し主イエスの血潮天地共に神に…
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2026-03-01 中山兄、浜田兄(12:30))
