2025年10月26日
主日礼拝
①申命記34章1~12節:前回9月14日の建徳では、モーセは40年も苦労してイスラエルの民を約束の地に導いたのに、主が彼に入ることを許されなかったのは可哀そうだというお話をさせていただいた。でも、本当にそうなのか。
では、もし入れていたらどうだったか。推測してみよう。彼の達成感は凄かっただろう。しかし、モーセはそれを自分の栄誉と思い違いをしなかったか。特に、本人はともかく、周囲の者たちは彼を英雄として祀り上げたことだろう。主はそうならないように、彼が入ることをお許しにならなかったのだ。墓の所在を明かされなかったのも、そんな主の配慮からだったと思う。だから、彼の死は決して懲罰による死ではなかった。さらに、活力も失われていなかったことから、老衰による自然死でもなかった。要は、彼の栄誉が讃えられるのではなく、主に栄光を帰すためだったのだ。
これは私たちにも言えること。私たちも自分が何をしたかを誇るのではなく、主の栄光を顕すための器として用いられていることを喜ぶ者でありたい。自分が何をしたかは問題ではない、何をし残したかも気にすることはない。主は名プロデューサーとして、そのご計画に従って脚本を書き、配役を決めてくださっている。私たちに最も相応しい役を割り振ってくださるのだ。そこには主役もいれば、脇役もいるが、その価値に上下はない。ただ、問われるのは、与えられた役にどれだけ忠実だったかだ。
そして、舞台が終われば、カーテンコールが待っている。地上での役割を終えて死んだはずのモーセは生きていて、「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」(マタイ17:3)と記されている。
礼拝讃美歌277番「われらの讃美は」を讃美したい。この詩を書いたF.J.クロスビーは盲人としての生涯を与えられたが、94歳で召されるまで、8,000曲もの信仰の詩を遺した。♪栄光 主に ハレルヤ♪ (人見)
礼拝讃美歌番♫ 我らの讃美は限りなし 栄光 主に ハレルヤ いよいよ力を増し歌わん 栄光 主に ハレルヤ♪
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2025-10-26 人見兄)
