ヨセフはエジプトに連れて来られた。ヨセフをエジプトへ連れて来たイシュマエル人の手から彼を買い取ったのは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長のエジプト人ポティファルであった。  (創世記39章1節)

 奴隷として売られたヨセフが、隊商の一団から逃げ出さなかったのは、鎖に繋がれていたからではない。逃げようという考えを捨てたから。そして、父や故郷のことを思うのも止めた。生きているのに、死者として葬られたヨセフは、過去を忘れようと努めました。

17歳のヨセフは、エジプトの高官の家で働く奴隷として買い取られました。自分と同じ多くの奴隷が、そこで働いていました。右を見ても左を見ても、全く知らない事ばかり。そのような中で、挫けることなく前向きに生きられたのは、神がヨセフと共におられたからです。彼は神と共に生きようとしました。父から聞いていた先祖の話と、その信仰が唯一の拠り所でした。創世記39章には、「主がヨセフと共におられたので、彼はうまく事を運んだ」(2節)と、繰り返されています。主がヨセフと共におられた、それが彼の支えでした。それは私たちにとっても同じ。主が共に居てくださるから、その主によってどんな辛い事も耐えられ、万事が益へと変えられます。イエス=インマヌエル(神が共にいます)が、私と共にいてくださる。

彼の主人は、主が彼と共におられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。それでヨセフは主人にことのほか愛され、主人は彼を側近の者とし、その家の管理をさせ、彼の全財産をヨセフの手に委ねた。   (創世記39章3~4節・新改訳)

 主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり」(2節)ともあり、ヨセフが何かをしたからというより、主が先に立って働いてくださったのです。自分の力で何かを成し、すべてが成功したら自分を誇るようになります。つい高ぶってしまう。ところがヨセフは違いました。物事すべてが順調に運んだとしても、栄光を主に返す謙遜さを知っていました。このことを17歳にして体得したのがヨセフです。
苦しみにあったことは、わたしに良いことです。 これによって私はあなたの掟を学ぶことができました。  (詩編119編71節)