(ヤコブ)はこう言って、ヨセフのために泣いた。一方、メダンの人たちがエジプトへ売ったヨセフは、ファラオの宮廷の役人で、侍従長であったポティファルのものとなった。          (創世記37章35.36節)

悲しみに沈む父ヤコブ。一方、ヨセフはエジプトに連れて行かれ、奴隷として売られます。聖書は、その時のヨセフの心情や様子について、何も語りません。トーマス・マン著『ヨセフとその兄弟』を参考にしつつ、思いを巡らせます。

動揺していた気持ちが落ち着いたヨセフは、隊商たちに「あなたがたは僕をどこに連れて行くのですか」と尋ねます。どこかに奴隷として売られることは、察しがついていました。エジプト、そこは外国でヨセフの想像を超えた都市。祈りました。父や祖父が祈るのを見聞きしていたからです。曾祖父のアブラハムから代々継承された信仰が、恐ろしい苦難の中で強められます。他に頼るものが何もないヨセフは、祈りました。どうしてこのようなことになってしまったのか、ヨセフは自分が兄たちにしたことを幾度も思い返していたに違いありません。しかし、そんなことをしても、もう取り返しがつかない。そう知りました。

一方、残された家族の間では、ヨセフは野獣に殺されたことになっていました。しかし遺体が無いので、本当に死んだのかどうかは、確かめようがなかった。しかし、ヨセフは死んでなどいないし、生きていました。そして、異国では言葉も分からないし、何もかもが違っていました。そんな現実の中で生きるのに必死でした。ヨセフは自分が見たあの夢のことは、忘れたに違いない。だが神は、忘れてはおられなかった。神には遠大なご計画があったからです。

瀬戸内海の小島「大島青松園」にはらい患者が隔離されていました。導かれてその島に行ったのは50年前でした。私が接した患者さんらは、生きながら死んだことにされた過去を持っていました。業病と忌み嫌われ、お前が生きていると親族に迷惑が及ぶからと家族から縁を切られた人たちでした。その人たちと一緒に、主を礼拝した日々が思い出されます。その人たちは今、復活の体を与えられて天国にいます。そんなことがヨセフと共に思い出されます。ヨセフも家族である兄たちから死んだ者として扱われていたからです。