2025年9月14日
主日礼拝

主は、40年の長旅を終えたモーセに、ピスガの頂に登らせ、眼下に広がる約束の地を見せた後、こともあろうに、「あなたはしかし、そこに渡って行くことはできない」と告げられた(申命344節)。なんと厳しいお言葉ではないか。それはモーセが一度だけ、主の言いつけに背いて、自分の杖で岩を二度叩いて水を出したからだという(民数20章12節)。でも、この40年間、モーセは自分勝手なイスラエルの民を率い、苦労に苦労を重ねて、ようやく、乳と蜜の流れるカナンの地に辿り着いたのだ。しかも、モーセはこの土地に入りたいと主に何度も懇願していたし、自身も120歳にも拘わらず、目はかすまず、活力もうせてはいなかった。それなのに、入らせないとは…。モーセが気の毒ではないか。ここで、私はこの申命記34章がいろんな意味で節目の個所だと気づいた。モーセの死、荒れ野の旅の終着点。そして何より、創世記から続くモーセ五書といわれる律法の書の締めくくりなのだ。モーセは主から十戒を授かり、律法を託され、その務めを果たしてきた。そして、最後に律法の厳しさを示す役割をも担ったのだ。私たちが律法によって義とされるためには完璧に守らなければならない。モーセは人生の3分の1をかけて荒れ野の旅を導いた。その功績はまさに表彰ものだ。しかし、律法によって義と認められるにはその一点一画をも疎かにはできないのだ。私たちもどんなに輝かしい人生を送ろうとも、律法を一度でも守らなければ、義と認められないのだ。主はモーセを通して、そのことを私たちに示されたのだ。そして同時に、主イエス・キリストのみが十字架によって、律法を完成されたお方なのだと改めて教えられた(マタ5章17~20節)。でも、モーセは好き好んで主から律法を託されたわけではないのに、カナンの手前で生涯を閉じるとは、可哀そうだとも思う。そのことは次の機会に。           (人見)

 礼拝讃美歌141番:か弱き我は 律法に耐えず 燃ゆる心も 激(たぎ)つ涙も 罪を償う力はあらず♪

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2025-09-14 人見兄)