2025年9月7日
主日礼拝
①イエス・キリストは神であると同時に人でもありました。一つの存在が神であると同時に人であるとは本来はあり得ないことです。ですからイエス・キリストにおいてどのようにそれが可能だったのかは、限られた人間の知性ではどうしても理解することができません。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。(マタイによる福音書11章27節)ここの「知る」は完全に知るという意味です。私達は父を知っているけれども子を知ってはいないということです。子とは誰なのか、私達はこの地上では完全には知ることができないのです。ただこの状態は今だけです。御国では私達も子がいったい誰であったのかを完全に知るでしょう。子に似た者となり、子のありのままの姿を見てすべてを理解するでしょう。そのとき私達は喜びに満たされるでしょう。その日はもうすぐです。見よ、わたしはすぐに来る。(ヨハネの黙示録22章7節) (中山C)
②創世記23章:アブラハムは妻サラの死に接し、胸を打って泣いた。2人は約束の地へ移り住んでから62年、夫婦として暮らした。その妻を葬りたいが、アブラハムは寄留者で自分の土地がない。それで墓地を求めると、ただで差し上げます、と言われた。代価を払わせてください、と言うと、銀400シェケルでと高額を求められたが、アブラハムは支払った。ただでもらって良い物と、ただでもらってはいけないものを正しく識別する。神の恵みも同じ。高価な恵みと安価な恵みがある。悔い改めの無い赦し、十字架の無い恵み、キリストへの服従の無い恵みは安価。畑に隠された宝を、自分の持ち物全てを犠牲にしても惜しまない恵みが高価。私たちもこの世では寄留者。愛する者の死に遭遇するが、アブラハムに倣いたい。 (浜田)
礼拝讃美歌523番:イエス君に在りて 召されし者 偲ぶは我らの慰めなり♫
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2025-09-07 中山C兄、浜田兄(13:00))
