2025年8月31日
主日礼拝

①「あなたがたの命であるキリスト」(コロサイの信徒への手紙3章4節)。命とは何かを定義することはできません。命は命によってしか伝わらないからです。理解したと思ったとき命は失われてしまいます。命を与えるのは御霊であり、死に導くのは律法です。大切なのは正しい教えではなく命です。私達が全く間違っていたとしてもキリストと共にいるなら、なお命が溢れるでしょう。ではどのようにして命に至ることができるのでしょうか。人間が何かをして命を得るということはできません。命は向こうからやってくるのです。命のある人がやって来るとき命がもたらされます。命を待ち望むとき命が与えられます。 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネによる福音書14章6節)         (中山C)

創世記28章10~17節:ヤコブは母と共謀して兄エサウの祝福を奪います。そのため母の実家へと逃亡。その途中、日が暮れ、彼は石を枕に眠ります。すると、階段が天と地を結ぶ夢を見ます。すると神はヤコブに、土地と子孫と祝福を与えると語りかけます。その上、あなたを決して見捨てないと約束されます。これを聞いたヤコブは、1に驚き、2に感激します。不安のまま眠ったヤコブは、まさかこんなところにも神は居て、自分を見守り、どこに移ろうとも、いつも共にいると言われたからです。私たちも見捨てられた、と思いやすいが、神はそうなさらない。では、天と地をつなぐこの階段(はしご)は、何でしょうか。ヨハネ1章43-45節:ナタナエルに主イエスは、「天が開け、神の天使たちが人の子の上に昇り降りする」と言われました。神と人を結ぶ階段であり道である主イエスをヤコブは示されたのです。        (浜田)

 礼拝讃美歌516番さすらう間に 日は暮れ 石の上の仮寝の 夢にもなお 天を望み 主よ 御許に近づかん。

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2025-08-31 中山C兄、浜田兄(12:00))