イスラエルは、追って来たアイの全住民を野原や荒れ野で殺し、一人残らず剣にかけて撃った。 (ヨシュア記8章)
ヨシュアは、まずエリコを絶滅(聖絶)し、そこの全住民を剣で殺しました。更に、アイの町も同じように滅ぼし、町を火で焼き払い、永遠の廃墟の丘として打ち捨てた(ヨシュア8章28節)、と記されています。老若男女を問わず、ことごとく剣で撃っています。
聖書の通読で、この箇所に来ると、ただ文字面だけを読み、戦いに於いてはこのような残虐さも仕方ないと受け取っていました。あるいは、これは「霊的な」戦いだと理解し、そうした殺戮は徹底的な清めなのだと受け取りました。しかし、神が与えると約束された地には先住の民族が居たので、彼らと戦争をして奪い取る行為になり、すっきりしない思いは消えません。それに加えて、考古学の発掘調査では、ヨシュアが滅ぼしたとされる年代とは違う、と報告されています。
アイの町は焼き滅ぼされたとありますが、その年代はヨシュア記より何百年も前に既に焼き払われていた、というのです。エリコの遺跡からも、ヨシュア記の戦いの痕跡は発見されていません。つまり、実際には戦争は行われていなくて、後の人が信仰の戦いを教えるために書かれたとの説があります。しかし、聖書をそのように読むことは、到底できません。そのため、この箇所は私の中で、解決しないまま燻っていました。
M・ノート著『イスラエル史』は、神学の教科書として広く用いられています。彼の理解は前述のもやもやに助けを与えてくれました。そして、聖書をもっと広く深く読む必要性を知らされました。広くとは、ヨシュア記~列王記までの4書が書かれた経緯を知ること、深くとは、上記の残酷な殺戮表現に示された神の御心を理解することでした。その理解は、過去のことではなく、現在行われているイスラエルのパレスチナ(特にガザ)に対する爆撃による破壊行為と密接に関係しています。神がイスラエルに与えられた地だからと言って、強奪でも殺戮でもして良いのだ、との考えは神の御心でしょうか。いいえ、違います!アブラハムはカナンの地で先住の人々と友好な関係を築き、その上でその地を自分のものにしています。その子孫であるヨシュアは、神の愛と義に反することなく、その地を占領しようとしたことは疑うことができません。聖書を正しく読むことが、いかに重要かを知らされます。
