2025年5月11日
主日礼拝

四福音書に記された、主が十字架につけられた日の出来事を比較対照してみた(資料参照)。すると、その相互関連性が明確になり、立体的になった。そして、新たな驚きを感じた。マルコ15章25節には「イエスを十字架につけたのは、午前九時であった」とあり、33節には「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」とある。この3つの時間帯で、主のお顔がまったく違うことに気づいたのだ。午前9時から正午までの、第1場ともいうべき3時間。ローマの兵士や周りの者たちは「神の子なら今すぐ十字架から降りて来い」と口々に主を罵り、嘲った。それには答えず、主は、彼らは何も知らないのだからお赦しくださいと父なる神に、とりなしの祈りをし、自分の罪を認めた強盗には「今日、わたしと一緒に楽園にいる」と約束してくださり、肉の母マリアの老後を気遣って弟子にこれからの介護を依頼された。ここでの主のお顔は、私たちに向けられている。ところが、第2場の正午になると燦燦と輝いていた太陽は光を失い、全地は一転して暗闇となった。それまでの侮辱と喧騒の3時間とはまったく違う、暗黒と静寂の3時間に私は驚きと違和感すら覚えた。そして、アモス8章9~10節によって、それは神の裁きが行われた3時間だと示された。つまり、父なる神が人となられた神なるイエス・キリストを自ら裁かれたのだ。私たちは誰かを赦すときに水に流すという。しかし、真の赦しとは、無かったことにするのではない。赦す者が自らを罰することだ。この3時間は神がご自身を罰しておられた時間だったのだ。そのことによって、私たちは罪赦されたのだ。その代償の大きさを改めて教えられ、厳粛な気持ちになった。3時からは、また光が戻って来た。第3場の始まりだが、これについては日を改めてお話ししたい。               (人見)

礼拝讃美歌 395番 ♪い つくしみ深き 友なるイエスは 罪咎憂いを 取り去り給う 心の嘆きを 包まず述べて などかは下ろさぬ 負える重荷を   

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2025-05-11 人見兄)