隣人に関して偽証してはならない。 (出エジプト記20章15節)
偽証とは、要するに偽ってはならない=嘘をついてはならない、ということです。「法廷の争いにおいて多数者に追随して証言し、判決を曲げてはならない。また、弱い人を訴訟において曲げてかばってはならない」(出エジプト23:2-3)と、あります。法廷に立つことは、恐らく殆どないと思われますが、その原則はいつの時代も変わりません。神と人の前で、あくまでも真実であることが求められています。どころが、自分の損得勘定によって、偽証がなされてきました。
アハブ王は、王宮のそばにあったナボトの畑を求めました。しかし、先祖代々の嗣業の土地を譲ることはできないと、断ります。王は機嫌を損ねて、食事もしません。それを見た妻のイゼベルは、夫を諫めます。そして、町の長老たちを呼び集め、裁判をし、ならず者たちに偽証をさせます。ナボトは死刑に処せられ、彼の土地はアハブ王のものになります。(列王上21章)そのように、偽証は人を死に追いやります。しかし、アハブとイゼベルはナボトを処刑した同じ場所で、今度は自分たちが死の裁きを受けます(列王上22章、同下9章)。何年も前、国会で当時の首相が虚言し、それを官僚が覆う出来事がありました。前述のイゼベルのようには、裁きが下されませんでした。しかし神はすべてをご存知で、最近になって本当の事が、少しずつ明るみになり始めています。
わが国では嘘の基準が西洋諸国に比べると厳格でないと言われ、「嘘も方便」との諺もあります。50年前、私の父は末期の癌を患っていました。当時は、事実を告知せず、胃潰瘍だと誤魔化していました。それが一般的でしたが、父の顔を見るにつけ、耐えられない思いでした。使徒パウロは勧めます。「偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。私たちは、互いに体の一部なのです」(エフェソ4章25節)。十戒は「隣人に偽証してはならない」とありますが、「隣人に真実を語りなさい」と、言い直されています。互いに体の一部だからです。たとえ、偽りが多くある社会、正直者が馬鹿を見る世の中であったとしても、主イエスに倣いたいものです。「私たちが誠実でなくても、キリストは常に真実であられる」(Ⅱテモテ2章13節)。