盗んではならない。 (出エジプト記20章15節)
第8の戒めです。人の物を盗ってはいけないことは誰もが知っていることです。しかし、知っていても盗みはなくなりません。その理由は、労せずして手に入れることができるからです。450㎏もの玄米がすべて倉庫から盗まれたとニュースで報じられました。高値で売れるからです。盗まれた人は、どんな思いでしょうか。高齢者を騙して多額の現金を振り込ませる詐欺も盗みです。良心の呵責を覚えないのでしょうか。
人は、神のものを盗むことができようか。ところが、あなたがたはわたしのものを盗んでいる。しかも、あなたがたは言う。「どのようにして、私たちはあなたのものを盗んだでしょうか」。それは、十分の一と奉納物によってである。 (マラキ3章8節・新改訳)
キリスト者は自分の収入のうち、自分で決めた分を献金として神に献げますが、この献金をしないことは神のものを盗んでいることになります。収入の十分の一は神のものだからです。もちろん神のために使うと決めていた時間を他のことに使ってしまうこと、それも神に対する時間泥棒になります。たとえば毎週の礼拝、日々の祈りの時間、その時間を日々の生活に忙殺されて忘れてしまうなら、神のものを盗んでいることになります。そんな意味もあることを教えられます。
盗んではならない、という戒めについて、信仰問答は記しています。
答:私ができる限り、また、許される範囲において、私の隣人のために、益を計り、彼に対して、自分が他人にしてほしいように尽くし、真実に努力して、困って助けを求めている人々を、助けることができるようになることです。(ハイデルベルク信仰問答111問)
主イエスは「人にしてもらいたいと思うことは何でも、あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である」(マタイ7:12)と教えられました。パウロは「盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい」と、勧めています(エフェソ4:28)。盗みは労苦しないで得ようとする安易な生き方です。
盗まれた時の、あの辛くて嫌だった思いを、人に味わわせない。むしろ、労苦して得た収入から献金する。第8戒には、そうした積極的な意味があります。盗むのは安易な生き方です。労苦して得た物を分け与える生き方を選びたい。それが祝福に繋がります。