2025年3月23日
主日礼拝

マタイ2311節:「あなたがたのうちでいちばん偉い人は、仕える者になりなさい」と主は言われた。仕えるとは具体的にどういうことか。律法学者たちは外面を着飾って、さも権威ある者のように振る舞っていた。周りの人々から「先生(ラビ)」と呼ばれて、チヤホヤされていた。その上、モーセの後継者だと自認し、自分が守れもしない口伝律法を作って人々に強制し、守れない人を罪人だと指弾していた。だから、人々はとんでもない重荷を背負わされて苦しんでいたのだ。そんな人々に主は「仕える者になれ」と言われたのだ。これは律法学者に仕えろと言われたのではない。むしろ、彼らを「先生(ラビ)などと呼ぶと、益々付け上がるから気をつけろ」と言われたぐらいだ。辞書によると、「仕える」とは「そばにいること」だという。主は「そんな重荷は私の許に持っておいで」と言ってくださった(マタイ11:28)。私たちを苦しめていた律法を、主は十字架で破棄してくださり、私たちを律法の苦しみから解放してくださったのだ。そして新しいキリストの律法を与えてくださった。それは「主なる神を愛すること」と「隣人を自分のように愛すること」、つまり「愛する」ことだ。この愛をさらに具象化したのが「仕える」こと。そして、それをさらにブレイクダウンした行動規範が「いつもそばにいること」なのだ。それで想起するのが、マルタとマリアの姉妹。マルタは主をもてなそうと忙しく奉仕していた。一方、マリアはただ主のそばに座っていただけだった。なのに主は、「マリアは良い方を選んだ」と言われた(ルカ10:42)。奉仕することと仕えることとは違うのだ。♪主よ 終わりまで仕えまつらん みそば離れず居らせ給え…♪(礼拝讃美歌354)の通りだ。 (人見)


先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2025-03-23 人見兄)