2023年8月27日
主日礼拝
《建徳要旨》
①ルカ4章22節:皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」
主イエス様は故郷のナザレに行き、会堂でイザヤ書61章1節を朗読され、「私は、人々を抑圧から解放するために神様から遣わされた」と話し始められた。人々はその恵み深い言葉に驚いたが、直ぐに、幼少の頃から知っている主がそんな事を言うのはおかしい、と主を馬鹿にしようとした。主は、預言者のエリヤとエリシャの例を引いて「預言者は故郷では歓迎されない」と言われ、ナザレの人々の不信仰をなじり、主を殺そうとするまで彼らを激高させることにより、彼らを救おうとなさった。すなわち、人々は後に主の十字架と復活を知って、初めて自分たちの罪深さに気付き心から悔い改めたのだ。彼らの多くが救われたことだろう。主は、様々な手段を用いて人々を救おうと、今も働いておられる。 (北原)
②イザヤ41章13,14節:主は言われる。恐れるな、虫けらのようなヤコブよ、イスラエルの人々よ、わたしはあなたを助ける。
なぜ主は、虫けら呼ばわりをされたのか。小国ゆえ虫けらのように蹂躙されていたから。そんな取るに足りない者を私は助けるから「恐れるな」と主は言われた。それは私への言葉でもある。詩22編7節:わたしは虫けら人間の屑、民の恥。これは十字架上の主イエスの言葉で,主は虫けらのように圧殺されるとの預言。パウロは、私たちは世の屑,すべてのものの滓(Ⅰコリント4:13)と言った。すべてに共通する響き~驚くべき謙遜,虫や屑に過ぎないとの認識がある。そんな者のために、主は死んでくださった。そして、主は復活され、今も生きておられる。私たちは、自分が虫けらのような存在と知る時、にもかかわらず助け、救ってくださる恵みの大きさに圧倒される。アブラハムが自らを、「塵あくたに過ぎない私ですが」と祈る謙遜さに感銘を受けた。 (浜田)
先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。
(建徳 2023-08-27 北原兄、浜田兄(22:00))