2023年7月30日
主日礼拝

《建徳要旨》
創世2章17節:「善悪の知識の木からは、決して食べてはならない。食べると必ず死んでしまう。
神はなぜエデンの園に、こんな危険な木を植えられたの? でも、その実を食べたのに死ななかったのはどうして? それは神の領域があることを教えるため。人は神に似せて造られたけど、神と等しく造られたのではない。なのに、人は自分を神だと思い上がる。すると神は不要に。これが神の領域を犯す最大の罪。その罪の結果、死に支配されるようになった(ロマ5:17)。これは肉体の死ではない。霊の死だ。でも、キリストによってその罪は贖われた。十字架の前夜、ご自身も神の身分でありながら、すべてを父神にゆだね、神と等しい者であることに固執しようと思わず(フィリ2:6)、十字架で人の罪を負われた。徹底して神の領域に踏み込まれなかったのだ。エデンの園の所在は不明だが、この「ゲッセマネの園」こそ、新約の「エデンの園」なのではないか。          (人見)

マタイ5章3節:悲しむ人々は、幸いである。その人たちは慰められる。
最大の悲しみは愛する者との死別。ナインのやもめは一人息子を亡くし、絶望の底に。憐れに思った主は息子を生き返らせます。どんなに深い慰めを受けたことでしょう。悲しみには2種類あり①この世の悲しみ②神からの悲しみです(2コリント7:9~10)。①は絶望に至らせ②は救いに通じる悔い改めを生じさせます。ペトロとイスカリオテのユダが代表例。主を3度も否んだペトロは慟哭し、悔い改めます。一方ユダは後悔し、自分に絶望して自殺します。2人の違いは、神は死ではなく悔い改めて生きることを願っていることへの気付き。その意味でユダは、無限に赦す十字架の愛に気づかず、最後まで主を裏切った。ではなぜ悲しむ人が幸いなのでしょう。目を自分から神に移す悔い改めによって、神が十字架のイエスと共に悲しんでいることに気付き、深い慰めを受けるからです。  (浜田)

先週,東京集会で行われた礼拝で録音された建徳です。

 (建徳 2023-07-23 人見兄、浜田兄(25:00))