①わたしたちに必要な糧を今日与えてください。(マタイ版)
②わたしたちに必要な糧を毎日与えてください。(ルカ版)
主の祈りはマタイ福音書6章とルカ福音書11章に記されています。その共通点を前回示しましたが、今回は相違点について記します。
私たちが第一に願うこと、それは日々の糧です。生きるためには糧が必要だからです。どうして働くのですかとの問いに、殆どの人は「食べていかねばならないから」と答えます。働いて給料を得るのは、必要な糧を得るためです。冒頭聖句①と②の違いは、今日か毎日かです。ユダヤ人を対象にして書かれたマタイ福音書は信仰者の立場から、一日一日が神からの恵みであり、神に頼って生きるべきことを教えています。それは、異邦人を対象にして書かれたルカ福音書に於いても同じで、自分たちの働きで糧を得ているようでも本当は神の恵みに依ることを、主は教えています。その上で、糧を毎日与えてくださいと願っています。
孫が1歳になったとき、「一生餅(もち)」という風習が先祖代々行われていることを知りました。1歳になった孫はやっと歩けるようになったばかり。その子の背中に餅を背負わせて数メートル歩かせるのです。背中の重い餅は親が持って、孫は形だけ背負って歩きます。この子が一生、食べ物に困らないようにとの願いが込められています。あるいはもっと早く生後百日目に、「お食い初め」をする風習があります。それも孫のことで知りました。未だ食べられないのですが、食べ物を口元に親が運んで食べるまねをします。この子が、一生食べ物に不自由しませんように、との願いを込めます。これは平安時代に始まった習慣で、その時代、食べ物が無くて死んで行く幼子が多くいたからです。ルカは異邦人が毎日(一生)、必要な糧に困らないよう願うことを知っていたに違いありません。
一生続く毎日は、その日だけに限定した今日の積み重ねです。天災による飢饉で、また理不尽な戦争による餓えで数えきれない人の命が奪われました。食べるために生きるのではなく、生きるために食べるのですが、天の父である神に必要な糧を願い、祈るよう、主は教えられました。
わが国で子ども食堂が始まったのは、飽食の時代にもかかわらず、隠れている貧困家庭への援助が動機でした。
それでは、私たちはどんな思いで、日々に必要な糧を、祈り求めたら良いのでしょうか。