主の祈りは、弟子の一人がイエスに「主よ、わたしたちにも祈りを教えてください」との願いに答えて、「祈る時には、こう言いなさい」と教えた祈りです。
ですから、主の祈りは「主が教えられた祈り」と言うのが正確な呼び名です。福音書にはルカ11章とマタイ6章に、その「主の祈り」が記されています。この2つの祈りには幾つかの違いがあり、それぞれに特色が見られますが、先ず共通点に目を向けます。

1、祈りの構成(優先順位)
主の祈りは、神に関する願いと私たちに関する願いの2つに分けられます。先に祈られているのは、神に関する事柄です。私たちの求める願いは、その後に来ています。この順序が大切です。とかく日々の生活の必要を優先しがちだからです。たとえそうであっても何よりもまず、神の国と神の義を第一に求めなさい、そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる、と主は教えておられるのです(マタイ6章33節)。どうして、そうなるのでしょうか?神が天の父だからです。「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈れ」と言って、主イエスは主の祈りを教えられました。

2、呼びかけ
マタイは「天におられるわたしたちの父よ」と記しましたが、ルカは単刀直入に「父よ」だけです。神を父と呼ぶ、それも、幼い子どもが父親に向かって呼びかける言い方「アバ=パパ」です。旧約聖書にも神を父と呼ぶ言い方はありますが(マラキ2章10節他)、神をアバと呼んだのは、イエスが初めてでした。その意味で、主の祈りは画期的だったのです。

自分の父親と良い関係になかった人は、主の祈りの呼びかけを口にすると、その父が思い出され、「天の父よ」と親しく呼べないと言います。確かに神である天の父と較べたら、人間の親は不完全で欠けが多くあります。それでも、わが子を切ないまでに思う。なのに子どもはそうした親の心が分からない。私自身そうした親の心を知らない親不孝者でした。自分が子を持つ親になった時、そのことに気付きました。ただその時には、父はもう地上の人ではありませんでした。悔やまれました。そのような思いで、天の父よと祈るなら、罪赦され贖われた身の幸いが、実感となります。