1、ローマ9章13節:わたしはヤコブを愛し、エサウを憎んだ。神様はなぜ兄弟の一方を愛し、他方を憎むなどという不公平なことをするのか。しかし創世記は、神様のヤコブ、エサウへの好き嫌いを言っているのではなく、心を低くして神の恵みを信じて依り頼む者を愛し、この世のことだけに関心を持ち、神に無関心な者を憎まれる神様の御性質、御心を私たちに教えている言葉だと分かります。そして、神様はヤコブを愛したと同じようにエサウもその子孫エドムも愛し、立ち帰るのをじっと待ち続けたのではないかと思うのです。それは神様の恵みと救いは太陽の光や雨のように、いつも変わりなく私たちの上に平等に降り注がれていること、また神様はあの放蕩息子の帰りを毎日毎日待ち続け、どれほどの喜びをもって迎え入れてくれたか知れません。そして今はまさに、神様が無関心な私たちをじっと待っていて下さる恵みの時なのです。 (T・K)
2、雅歌1章1~6節:エルサレムの娘たちよ、私は黒いけれども愛らしい(美しい)。信仰は知識よりも愛の問題。キリストの愛=信仰から引き離すものは何もない、と。雅歌は、黒い(罪に汚れている)けれども愛らしく美しいと言っている。黒いなら美しくない、となるべきなのに。それは、愛されているから。愛される価値や理由があるからではない。主の憐みの故。15,16節では互いに相手を「美しい」とほめ合っている。主は私たちをそのように呼びかけてくださる。勿論、私たちも主をほめ讃えている。それなら、人間同士もお互いに相手をほめたい。家族、特に夫婦間に於いて、そうすることが肝心。私は今までその反対をしてきた、と反省している。相手(伴侶)は所有物ではなく、神からの贈り物。互いの存在を「いてくれて有り難う」と受け止めたい。主もそのように対して下さる。 (K・H)
礼拝讃美歌 238番(天地造りて ものみな統ぶる)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2020-10-25 T・M兄、K・H兄(22:53))