ソロモンの雅歌。どうかあの方が、その口づけを もってわたしにくちづけ(複数)してくださるように。 (雅歌1章1,2節)

雅歌とは「歌の中の歌」即、最上の歌の意味です。雅歌を正しく読めば、魂に無上の喜をもたらしてくれます。雅歌は、読む人の心に応じて、装いを変えてあらわれます。ある人にとっては、単なる恋愛詩にしか思えないかも知れません。文字通りには、そう読めるからです。しかし、ある人にとっては、旧約聖書の頂上なのです。雅歌の1行1行から、神の圧倒的な愛が読み取れるからです。ただ、そうなるには手引きが必要です。比喩的な解釈によって、言葉に秘められた意味が解き明かされるからです。その役目を、この花かご欄が果たせれば幸いです。そもそも聖書に、どうして雅歌のような書が、正典として入っているのでしょうか?AD95年ごろ、ヤムニア会議で旧約正典39巻が確定されています。その時、雅歌とコヘレトの言葉の2書が激しい論争の的となりました。ラビ・アキバが「雅歌に歌われる男女の愛は、神とイスラエルの民との関係を比喩的に歌ったものと解釈する」と述べて、反対意見を退けたのです。冒頭の聖句をご覧下さい。

雅歌は、冒頭から「口づけ」が出てきます。別訳で は「あの方は、ご自分で、幾度も口づけしてくれるでしょう」(1:2)。神の口づけ=神の言葉です。複数形になっているのは、幾度も神の言葉を受けたいと願っているからです。モーセが、顔と顔とを合わせて主と語ったように(申命記34章)、主人公の乙女は、口と口とを合わせて神の言葉と愛を絶えず受けたい、と求めているのです。神と言わず「あの方」と呼んでいます。神は目に見えない霊的存在者だから、人となられたイエス・キリストに向けられた言葉と読めます。限りなく麗しい花婿キリストを「あの方」と表現しています。そして初めて口づけした時の喜びや心の震えが、冒頭から読み取れます。それは、私たちがキリストに初めて触れた時につながります。自分に向けられた神の眼差しと神の言葉に触れた時のことです。それを受けても未だ十分には理解できないから、もっと知りたいとの求めが湧いてきます。そして、自分の肌が黒くて、愛され口づけされるには相応しくないにもかかわらず愛される(5節)、と伝えているのが雅歌です。2011/11/1の建徳参照