エゼキエル111416節:確かに、わたしは彼らを遠くの国々に追いやり、諸国に散らした。しかしわたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった。

これは神が言われたもので、バビロン捕囚の憂き目に遭った者たちのために、ささやかな聖所となった、とある。捕囚民は、どれほど励まされ、慰められたことだろう。こうしたことはイスラエルの民だけの事ではない。暴虐な支配者によって祖国を追われ、異国で悲しい辛い生活を送っている人たちが多くいる。そうした現実があるにもかかわらず、島国の日本では他人事のように感じられるかも知れない。そうした面で、私たち日本人の難民理解は大変遅れていると、故緒方貞子さん(国連難民高等弁務官)も言っておられた。それにしても天地万物を支配されている神が、貧しく寂しい人たちの集まりの中に居てくださるとは、何という慰めと励ましだろうか。エゼキエルは1章にあるように、祭司の家に生れた人で、預言者として捕囚民の中に生きた。彼の言葉を読みながらヨハネ2章19~22節が思い浮かんだ。イエスさまの体が神殿であること。十字架でそれが壊されても、三日目に立て直されて復活する。そして、目に見えない聖霊を通して、私たちの中に住んでくださる。私たちの体がささやかな聖所、神殿となるとは、何という恵みか

先週、娘夫妻の住む那須塩原を訪ねた。また近隣に住まれる兄姉らをも訪ねた。自分の家を祈りの家とし、旅人をもてなし、安らぎを与える場所とされておられる。娘夫妻も来年4月から益子教会で、福音を語り伝える牧師の役目を担う。(柴川姉)

建徳の録音です。

(建徳 2019-11-17 柴川姉、関姉@22:15)