彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け… (マタイ28章19節)

 聖書の神は三位一体の神です。三位とは、父なる神と子なるキリストと聖霊のこと。それらは、別でありつつ一体なのです。だから、主イエは「わたしと父とは一つである」(ヨハネ10章30節)と言われています。一つとは一体であることです。別でありつつ一つ。それは分かりにくいことですが、聖書は、そのことを示しています。にもかかわらず、エホバの証人(ものみの塔)は三位一体を否定します。神はエホバだけで、子も聖霊も神ではない、と。聖霊は神から出る霊であって、人格的なお方ではない、と主張するのは、聖書、特に使徒言行録を正しく読んでいないからです。

冒頭の聖句は、父・子・聖霊が一つ神であることを示しています。そして、聖霊は神であって単なる影響力ではないのです。私たちはともすると聖霊を、人格のないit(それ)と言ってしまい易いのです。使徒信条には、我は聖霊を信ず、とだけ言われています。使徒言行録を読むと、聖霊が告げた(13章2節)、聖霊から禁じられた(16章6節)、とあるのに気づきます。人格を持つ神として行動されているのです。その一方で、彼らに、「信仰に入ったとき、聖霊を受けましたか」と言うと、彼らは、「いいえ、聖霊があるかどうか、聞いたこともありません」と言った(使徒19章2,3節)とあります。私たちにとっても、聖霊なる神は分かりにくいお方です。

三位一体の神は、天地創造の時から共に協働しておられます。父神が計画され、子なるキリストが言葉として「~あれ」と命じられ、神の霊(聖霊)がそこに働いて創造の業がなされています。人間を創造された時、神は「我々にかたどり…」と、我々と複数形で言われています。キリストは、聖霊によって身籠ったマリアから誕生されました。聖霊は、ペンテコステ(使徒2章)の日に信じる者の上に降りました。たまたま、その日だったのではありません。主イエスが贖いの業を十字架によって成し遂げ、天に上げられた後に、聖霊が降臨されたのです。父神の姿を現したのがイエス・キリストで、その主イエスと同じお方として聖霊が、信じる者の中に宿れる霊となられたのです。三位一体の父と子と聖霊の関係は絶妙なもので、別でありつつ一つ、そして、現れる順序も秩序正しくあるのです。