人間にとって最も良いのは、飲み食いし 自分の労苦によって魂を満足させること。 しかしそれも、わたしの見たところでは 神の手からいただくもの。(コヘレト2章24節)

コヘレトは巨万の富を惜しみなく使って、大邸宅や庭園を作り、人が欲しいと望むものは何でも手に入れようと試みます。作り、建て、植え、集めることで、歴代の諸王がしてきたことです。そうして得た快楽は空しいものでしかなかった、と記しています。利己的な求めだったからですが、それだけではなく、人間の力によって成し遂げる、自分の手でつかもうとすること、それ自体の空しさなのです。反対に、恵みとして神からいただくものとしての飲み食いにこそ確かさを見出したのです。冒頭の聖句がそれを示しています。快楽を求めて、自分や人間が中心になる在り方から、神から恵みとしていただく在り方への転換が、2章に於いて、その始めと終わりにあり対照的です。

冒頭の聖句はいただくものとして飲食が記されています。コヘレトが至った結論は、日常の誰もがしている食べたり飲んだりして得る楽しみでした。それは哲学的で高尚なことと言うより、極めて素朴なものでした。それも神の手から賜物としていただくものです。同じ事を3:12,13,22,5:17-19,8:15,9:7-9 でも繰り返しています。神から離れて、飲み食いして楽しむことは、コヘレトには有り得ないことでした。それは私たち日本人にも通じます。食事の時、手を合わせ「いただきます」と言います。何をいただくのでしょうか。他の動植物の命です。私たちは自分の命を長らえさせるために、他者の命が必要です。私たちに食べられるために飼われている牛や豚や鶏、魚に感謝しているでしょうか。栄養云々の前に、色々な動植物の命によって生かされていることを再認識したいものです。手を合わせ、神に感謝していただきます。神が、私たちの日々の労苦に添えて与えてくださるのが、食事です(8章15節)。コヘレトは飲食を,神の賜物と言いました。しかし、現代人は神から切り離して飲食を追い求めています。それでも食事の前には「いただきます」と手を合わせます。コヘレトは冒頭の聖句に続けて、自分で食べて、自分で味わえ(2章25節)と勧めます。食材の命と、料理してくれた人の愛情に感謝します。