3、我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
私たちの信じる神は、天地=万物を無より造されたお方です。私たちが何かを作る時、必ずその素となる材料を用います。材料無しには作れないからです。し
かし神は、無から創造されます。ローマ4章17節で、「彼(アブラハム)はこの神、即ち、死人を生かし、無から有を呼び出される神を信じたのである」(口語訳)と書かれています。だから、創造(バーラー)というヘブライ語は、神にだけ使われるのです。
仏教には創造という教えがありません。この世界は 永遠の初めから、今のように在ったと説きます。ただ 私たちは輪廻して、生まれ変わるのです。それを図に
しますと、円になります。初めもなければ終りもない 円になります。それに対して聖書が説くのは、創造の初めと終わりがあると言うことです。それを図にしま
すと、直線になります。正確には、らせん状に回りながら進む線です。歴史をも、そのように理解します。
天地=万物で、私たち人間も神によって創造されたものです。そして、忘れてならないことは、神の造られたものは「極めて良かった」と言われていること。最
良なのです。この世界の自然も、私たち人間も、すべてが美しく、極めて良いものだったと言うことです。ただ、それが今では破壊されてしまった、のです。そ
の厳しい現実の中に在って、神は助け主なのです。
目を上げて、わたしは山々を仰ぐ。
わたしの助けはどこから来るのか。
わたしの助けは来る、天地を造られた主のもとから。
(詩編121編1節)
太陽と月は私たちと密接ですが、時に危険をもたら します。昼間の太陽熱は人を撃ちます。夜間の月光も精神を撃ちます。それが聖書の舞台である中東です。 でも、天地を創造された神が日陰となり、右に在していつも守ってくださいます(詩編121編5-6節)。だから,「あなたの若い日に、あなたの造り主を覚えよ」と勧め
られています。あなたを造られた神を知り、信じることへの勧めです。私は大学生の時に、イエス・キリストの十字架と復活の意味を学びました。そして、この
創造主を信じました。更に、そのお方のことを記した聖書を読み始めました。私を造られた神との出会いと交わりはその後も変わることがなく、唯々感謝です。