たといまた、わたしが自分の全財産を人に施しても、また、自分のからだを焼かれるために渡しても、
もし愛がなければ、いっさいは無益である。    (Ⅰコリント13章3節)

 慈善事業と信仰。歎異抄第4条は、そのことに触れています。その中で親鸞は、この世ではどんなにかわいそうだと思っても、自分の思い通りには助けることは困難だと述べています。自分の小さな力や熱意だけでは、到底助けられない。けれども、自分自身が先ず救われて、上からいただく信仰と慈悲の心でするならできる。親鸞の時代にも、社会福祉などの慈善事業がなされていたことが分かります。

冒頭の聖句は、極端な事例を述べて、愛こそ最も重要であることを伝えようとしています。財産を全部人に施したとしても、人間の力や思いだけでするのなら神と同じ愛にはならないから、犠牲を払った相手を救えない、と慈善事業の根本を問うているのです。

ある方がインド旅行で、貧しい子どもらに囲まれて「私は、いったい、どうすれば良いのだろうか…」と悩まれた。自分にとっては僅かなお金でも、目の前にいる貧しく飢えた子どもにとっては大きい。あげたいと思うが、かえってそれが乞食にしてしまわないか、と。それに、なにせ差し出される手が多すぎるし、これではいくらあっても足りそうにない。更には、目の前ばかりでなく、全インドには無数に近い飢えた貧しい子どもたちがいる。そう考えると分からなくなり、どうしようもない絶望に襲われる。単なる憐れみだけでは、すぐに底が尽きてしまう。40年前の話です。

自分を超えた神の愛、キリストのいつくしみが満ちない限り、慈善の業にもエゴが混じり、それが相手に伝わる。パウロの言う愛とは、神の愛であり、十字架のキリストの愛。人道主義の愛ではない。私の自我が十字架につけられて死に、我ならぬ我なるキリストが発露される以外に、人を助け立ち上がらせることはできない。だから、何かをするよりも前に、主イエスの御名を呼び、「主よ、あなたの愛と力をください」と祈り求めます。歎異抄は仏教書ですが、宗教を超えて真理である福音に限りなく近い書です。親鸞が、ひたすら念仏申すのみ、と書いていることを思うばかり。