長い間、禁書として埋もれていた『歎異抄』を蘇らせたのが清沢満之(1863-1903)でした。バッハの『マタイ受難曲』を蘇らせたメンデルスゾーンのような人でした。その清沢は、次のような話を書いています。

ある所に二軒の家が隣り合わせてありました。一軒は家中で争いが絶えない「喧嘩家」、もう一軒は三世代が一緒に住んでいますが、喧嘩一つしない家。まことに対照的な隣り同士でした。ある時、喧嘩家の主人がお隣りに行って、こう尋ねました。「わが家は何かと言っては争いになります。ところがお宅は喧嘩一つしない。どうしてでしょうか」と。すると次のような返答がありました。「私どもは悪人ばかりの集まりですから、争いが起きません。察するにお宅は、善人ばかりの集まりでしょう。だから、喧嘩が絶えないのではありませんか」と。そう言われて、分かったような分からない思いで、喧嘩家の主人は帰りました。
それから程ないある日、隣りで厩(うまや)の馬が勝手口から入り込み、台所の食器などを壊す出来事が起きました。さぞ争いになるぞ、と喧嘩家の主人は耳をそばだてていました。すると、皆が「私が悪かった」と言い合っているのです。老母は、私が勝手口をきちんと閉めていなかったからと言えば、老父は、いやいやそうじゃない、馬をきちんと厩につないでおかなかった私のせいだ、と言うではありませんか。そこに若夫婦が出て来て、いえいえそうではありません、と皆が自分が悪いと言い合って、決して人を責めません。その様子をずっと聞きながら喧嘩家の主人は、はたと思い当たったのです。そうか「私どもは皆、悪人の集まりですから」と言ったのは、そういう意味だったのかと。
自分は正しい、善人だと自負していれば、そうでない者を裁きます。裁けば喧嘩になります。

自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下しているファリサイ人と、隣りにいて「神様、罪人の私を憐れんでください」と祈った徴税人の話を主イエスは語られ、義とされたのは徴税人だと言われた(ルカ18章9-14節)。自分ほど悪い者はいないと分かったのが徴税人。それに対し、自分は正しい善人だと思っているのがファリサイ人。喧嘩家の一家は後者で、自分の正しさで相手を裁くので、喧嘩が絶えない。では、あなたはどうなのか、と問われているように思います。