「キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた」という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します。わたしは、その罪人の中で最たる者です。
(Ⅰテモテ1章15節)
自分が罪人であること、しかも最も悪い罪人の頭である、と述べています。この罪人意識はどこから来るのでしょうか。五十嵐健治兄は訪ねて来られた兄姉に「私ほど悪い者はありません、その私を救うためにキリストさまは、身代わりとなって十字架のお苦しみを受け、贖ってくださいました。本当に何と申し上げたら良いか、唯々感謝し、ひれ伏して崇めるほかありません」と涙ながらに語られました。私ほど悪人はいない、と言われたのです。キリストの光に自分の醜い内面が照らし出されなければ、罪人の頭、私ほど悪い者はない、との自覚は生まれない。私が五十嵐兄の言葉を聞いたのは、茅ケ崎集会の横山兄からでした。驚きと感銘を受けました。牧師の世界でも、ここまで深い言葉を耳にしたことがありません。冒頭の聖句に続き「しかし、わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになりわたしがこの方を信じて永遠の命を得ようとしている人々の手本(見本)となるためでした」(16節)と、記されています。これほど罪深く、悪い私でも救われたのは、主の限りない憐れみと忍耐のゆえであり、この私はその見本です。手本というより見本です、と言っているのです。
前回、歎異抄第3条、悪人正機=悪人こそが善人よりも救われる、について記しました。神の目から見れば、すべての人は悪人であり罪人です。義人はいない一人もいない、のです。なのに、その本当の姿に気づかないから善人意識を持ってしまい、人を裁くファリサイ派が生まれました。自分の真の姿に気づいたら、前述のパウロや五十嵐兄の言葉になります。謙遜さがそこにあります。そのことを教えるために、主は弟子たちに「あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている」(マタイ7章11節)と言われました。しかし、弟子たちは、それに気付きませんでした。そんな弟子たちを見捨てず悪い者の身代わりとなって、主イエスは十字架で死なれたのです。十字架の救いこそ親鸞のまだ知らぬもので、悪人正機は主の十字架によって完成されるのです。