それらを拝んではならない。それらに仕えてはなら ない。あなたの神、主であるわたしは、ねたむ神、 私を憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし… (出エジプト20章5節・新改訳)
第2戒の中で、冒頭の「ねたむ神」と訳された箇所は、正しい理解が必要です。常識的に、ねたみは嫉妬と理解され、良い感情とは思われていないからです。だからでしょうか、新共同訳では「熱情の神」と訳されています。そのような訳は、他にはありません。そして、新共同訳を改訂した聖書協会訳では、妬む神、に戻っています。更に、十戒以外の箇所でも、主はその名を妬みと言い、妬む神だからである(出エジプト34章14節・聖書教協会訳)と、なっています。
ねたみは強い感情です。それで「熱情」と訳されたのかも知れません。それは、曲がったことを嫌う、という意味です。ご自分の民であるイスラエルが、神でないものを神として拝む偶像崇拝を、許容できない。夫婦間での裏切りになる霊的な不倫行為だからです。聖書の神は私たちとの関係に於いて、何をしてもどちらでも構わないような関係を望んでおられません。ねたみは愛情があるから生じます。それを神に用いると誤解される危険がありますが、それ以外の言葉では「神の愛」を表現できないからです。神が激しく愛する時、ご自分が激しく愛されることを求め、適当では済ませないからです。私たちの信仰が生温いのは、ねたむ神との関わりで生きる激しさが欠けているからではないか。神との関係が、結局、どうでも良いものになってしまうところがあるのではないでしょうか。
神のねたみが意味するものは、神は限りない慈愛をもって、我々にご自身を与えてくださいましたから、我々もまた、一切をあげて神のものとなることを望まれるのです。(ジュネーブ信仰問答152より)
偶像崇拝の罪は四代先のひ孫にまで及ぶのですが、他の罪は本人一代限りで、子どもが正しければ、親の罪が子にまで追求されることはありません。それほどこの罪は重いのです。他方、わたしの戒めを守る者には、幾千代にも及ぶ慈しみを与える(20章6節)と約束されています。神は祝福と慈しみを与えたいのです。第一戒であなたには、わたしをおいて他に神があってはならない、と命じられているのは、神が私たちと花婿と花嫁の関係にあることを示しています。それが十戒なのです。