姦淫してはならない。    (出エジプト記20章14節)

 第7の戒めです。姦淫は性的な罪です。この頃は、不倫と表現されます。結婚しているのに、配偶者以外の異性と肉体関係を持つこと、それが不倫であり姦淫です。旧約律法によれば、それは死罪です。発覚したら両者とも死刑に処せられます。日本でも昔はそうでした。それなのに不倫は無くなりません。この罪は、第6戒の殺人と第8戒の盗みの間に置かれています。姦淫は配偶者の心を殺すのに匹敵し、相手の配偶者から盗むに匹敵します。テレビなどのドラマでは、不倫の苦悩や、そこに至る経緯が愛憎ロマンとして描かれます。しかし不倫は姦淫であって、聖書は、それを罪と見なします。旧約・マラキ2章14~16節。姦淫を妻への裏切りとし、それは結婚を聖なるものとして定められた神への裏切りだと述べています。父母を離れて結ばれ、文字通り一体となるのが結婚だからです。姦淫とは、一体とされた夫婦を切り裂く殺人と同じです。

あなたがたも聞いているとおり、「姦淫するな」と命じられている。しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。  みだらな=淫らな  (マタイ5章27、28節)

これは主イエスの言葉です。これでは厳し過ぎ、とても守れないとの声が上がります。なぜ主は、このように言われたのでしょうか。そこに、深い愛の配慮が読み取れます。世の中では性欲を抑制できないため、性犯罪に走ってしまうニュースが繰り返し報道されます。それは、年齢や職業などとは関係ないことが分かります。教師や警察官も例外ではないからです。根本的な解決は、どこにあるのでしょうか。主イエスにあります。ヨハネ8章、姦通の現場を取り押さえられた女が、公衆の面前で晒され処刑されようとしていました。どう裁くか、と問い詰められたイエスは、淫らな思いで女を見ていた人々に、「罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げよ!」とだけ言われました。石を手にしていた者は、年長者から始まって、一人また一人と立ち去ります。死から救われた女性に、イエスは「わたしもあなたを罪に定めない。もう罪を犯してはならない」と言われました。今後、彼女が再び同じ罪を犯すことは、もうないでしょう。姦淫の原因は愛の不毛にあります。死を自覚した女は、ここで本当の愛に出会ったからです。愛の冷えた時代ゆえ、心と魂がキリストの命と愛に覆われることです。そこに解決があります。