殺してはならない。       (出エジプト記20章13節)

 正当防衛という言葉があります。サウル王に絶えず命を狙われ、逃亡し続けたダビデと部下たちは、無数の洞穴のあるエン・ゲディに潜んでいました。王は、3千人もの兵を率いてダビデを追ってきました。ダビデたちが洞穴の奥に隠れているとも知らず、サウル王は用を足しに、その洞穴に入って行き、無防備に背中をダビデたちに向けます。部下はダビデに「今こそ、サウルを殺すべき絶好のチャンスです。」と進言しますが、ダビデは「私の主君であり、主が油を注がれた方に、私が手をかけて殺すのを、主は決して許されない」と退けます。後でそのことを知ったサウル王は、「主が私をお前の手に引き渡されたのに、お前は私を殺さなかった。自分の敵に出会い、その敵を無事に去らせる者があろうか」(サムエル上24章)と、ダビデに言いました。別の折、サウル王を殺せる絶好のチャンスがあった時でも、ダビデは「殺してはならない。主が油を注がれた方に手をかければ、罰を受けずには済まない」(同26章)と言っています。ダビデがサウル王を殺しても、正当防衛かも知れません。しかし、彼は殺しませんでした。サウル王が神から油を注がれていたからです。これは何を意味するのでしょうか。

ノアが箱舟から出た時、神は「人の血を流す者は、人によって自分の血を流される。人は神にかたどって造られたからだ」(創世記9章6節)と言われました。どんな人の中にも、神のかたちはあります。殺人は、その神のかたち(像)を破壊することです。だから、禁止されているのです。ダビデはそのことに気づいてサウロ王を殺しませんでした。どんなにサウル王の前から逃げ回らなくて済むことを願ったことでしょう。しかし、サウルを倒すことは、神がなさるのであって自分の手ですることではないと分かっていたのです。「誰に対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。…自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。…あなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。…悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12章17-20節)と、勧められています。

毎日どこかで、神のかたちに造られた人が殺されています。ダビデはサウル王の死の報に接した時、勇士は倒れた、と心から悲しみました。何と気高い事でしょう。