愛は死のように強く 熱情は陰府のように酷い。
火花を散らして燃える炎。
大水も愛を消すことはできない。
洪水もそれを押し流すことはできない。
愛を支配しようと 財宝などを差し出す人があれば
その人は必ずさげすまれる。(雅歌8章6,7節)

雅歌のクライマックスが、この部分。ここに表現されている愛は、どこに見られるでしょうか。十字架のキリストです。十字架の愛です。死よりも強く、激しく燃える愛の炎は、大水でも消すことはできません。洪水も押し流せません。その愛は金銀財宝を差し出しても、買うことが出来ません。むしろ金で買おうとするのか、と蔑まれます。それが聖書の伝える愛です。

更に最近、雅歌から読み取れたのが「引き籠り」への対応です。40歳の息子が「ひきこもり」になったのは、父親が息子に「お前は役立たずだ」と、折に触れて叱ったのが要因。ますます追い込まれた息子は、歩道橋から身を投げようとします。それに気づいた父親は、末期がんに侵された体でありながら、夜の歩道橋に走り、「何が出来なくても良い、ただ生きてさえいてくれたら、それで良い」と息子に語りかけます。そして「今まで済まなかった」と、詫びるのです。人の役に立つ者になってほしい、と息子に期待した。しかし、何かが出来て役に立つ以前に、生きていてくれるそれだけで良い、と気づいたのです。それを思い出させてくれたのが、雅歌2章10~13節に書かれている、洞穴に閉じ籠っているおとめに向けられた言葉です。

「さあ、立って出ておいで。ごらん、冬は去り、雨の季節は終わった。花は地に咲きいで、小鳥の歌うときが来た。この里にも山鳩の声が聞こえる。…さあ立って出ておいで。」

寒い冬の間は、何も語りかけず、じっと忍耐して待ちます。こうした時期は、出て来るようにと語りかけても、引き籠りからは出て行けないからです。雅歌に何度も繰り返されている言葉は、「…誓ってください愛がそれを望むまでは 愛を呼びさまさないと」です(2章7節他)。愛が自分からそうしたいと望む時まで、待っていてくださいと、おとめは頼んでいます。息子や娘が引き籠りを止めて、自分から出て来るまで、じっと待てるかどうかです。愛は待つ、時が熟するまで待ちます。そして、相手の胸に響く一言が語られます。イエス・キリストの言葉、いのちの言葉がそれです。