あらゆる種類の生き物は、人間によって制御されていますし、これまでも制御されてきました。しかし、舌を制御できる人は一人もいません。(ヤコブ3章7,8節)
名投手は、キャッチャーが構えた所にボールを投げます。要求された所にきちん投げ込みます。コントロールが良いからです。そのように自分の舌を、自由にコントロール出来たらと思います。そんな人は、言うべき時に適切な言葉を話し、沈黙すべき時には黙って、余計なことを言わないのです。そうした人になりたいものですね。
しかし私はと言うと、コントロールのない投手のように、的確な言葉を出さずに余計なことを言ってしまったり、肝心なこと言わなかったりします。また、人の気持ちを弁(わきま)えずに、相手を傷つける言葉を、つい口にしたりします。そして後で、くよくよと自責の念に駆られてきました。そんな自分を変えるには、どうしたら良いのですか、と神に問いました。冒頭の聖句にある通り、舌を制御(コントロール)できる人は一人もいないとしても、程度の差はあれ、誰もが私と同じ思いであるに違いないと思っています。
聖書から教えられた方法として、次のことを実践しています。自分の意志や努力で舌を制御するのではなく、聖霊なる神の働きに身を委ねて舌を制御していただくことです。具体的には、朝起きた時、「主イエス様、聖霊として私の心の中、頭脳の中にお入りください、そして、私の舌と唇をコントロールしてください。あなたに主導権をすべてお委ねします」と、祈ります。私には出来なくても、主イエス様には出来るからです。
実際、そのように祈ったら、どうなったか。少しづつ、本当に少しづつですが、変化が感じられるようになりました。原理的には、私の自我が消えて、内なるキリストである聖霊が私を導くからです。生きているのは、もはや私ではありません。キリストが私の内に生きておられるのです(ガラテヤ2章20節)。キリストが私の内で、生きて働かれるからです。
コントロールすべきものは、舌だけではありません。色々な欲や貪欲さも制御されねばなりません。怒りの感情もコントロールする必要があります。分かっちゃいるけど止められないのが、私たちの現実だとしても。そこに、まさにそうした現実の中で、聖霊という神の働きに委ね、コントロールしていただくのです。前述の祈りを習慣にしてしまいたいものです。(2020年11月26日)