雅歌には、若者とおとめの間の愛が描かれていますが、そこには成熟と進展が見られます。それについて述べている小川礼一著『愛の歌』を引用します。

Aわが愛する者はわたしのもの、わたしは彼のもの。 (雅歌2章16節)

Bわたしはわが愛する人のもの、 わが愛する者はわたしのものです。 (雅歌6章3節)

Cわたしはわが愛する人のもの、 彼はわたしを恋い慕う。 (雅歌7章10節)

上記の語り手は「おとめ」です。ですから、私たちが主キリストに向けて語りかけた言葉です。注目点は下線を引いた、わたしのものです。では「わたしのもの」が先で、「彼の」があとです。私たちの最初は主を自分の入用のために求める自己本位の信仰です。 では「わたしのもの」の順序が入れ替わり、彼のが先で、わたしのが後です。主を第一とし自分の入用をその次にする、これは信仰の進歩です。そしてに至っては、「わたしのもの」が無くなっています。私の入用のための主ではなく、主が御自分の御入用のために、私をご自分のものとしておられる、と言っています。何と恵まれた幸いな霊状でありましょう。主と私たちとの関係は、第一が主、第二も第三も主、主がすべてであります。…「恋い慕う」とは「なくてならぬものとして切に求める」気持ちを現わしています。恋する者にとって恋人は、なくてならぬものでありましょう。主にとって私たちはそのような存在とされているのです。(『愛の歌』76、77頁)

「私のもの」がなくなるとは、どういうことでしょうか。パウロの言葉。わたしは、キリストと共に十字架につけられています。生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。(ガラテヤ2章19,20節)私がキリストに覆われて見えなくなる(消える)のです。私が無い、私の自我がキリストの中に溶かされ、無くなった状態それを上記の雅歌は示しているのです。主がすべてとなり、第一も第二第三も、すべて主だけ。信仰にとっても古い人である自我が、新しい人であるキリストと入れ替わり、キリストが私の全てになることです。雅歌は、キリストに対する信仰の鍵を示しています。