1、マルコ9章40,41節:わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。…あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。私たちは、自分の愛する身近な人たち例えば父や母、夫や妻あるいは子供たちに、神様のことイエス様のことを話してもなかなか信じてもらえない、大分分かってきたかなと思ってもなかなか受洗までいかない。こんな経験で悩まれている方が、私もそうですが皆さんの中にも沢山いらっしゃるのではないでしょうか。上記の聖句はそんな私たちにイエス様が下さった慰めの言葉、励ましの言葉であり、大きな希望の言葉なのです。イエス様は「キリストの味方は必ずその報いを受ける」と言われ、私たちが一生懸命に伝道し、その人がキリストの味方になれば、仮に受洗に至らなくても「後はわたしに任せなさい」と言ってくださったのです。全知全能の主イエスの約束です。それは「必ず天国に行ける」という意味であると私は確信しています。 (T・M)

2、雅歌2章16節,6章3節,7章11節:わたしは恋しい人のもの あの人はわたしを求めている。この3つの聖句にある「わたしのもの」に注目。それが段々後退し、最後には消えています。無私になっています。そこに、信仰の成長が見られます。雅歌からそれが読み取れます。無私の典型は主イエスです。ご自分を無にして、僕の身分になられたからです。主様と私の関係は、最初は私が先で、次第に私は後に退いて行き、最後は消えて主だけになる。ガラテヤ2章19,20節に「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」と記した。しかしなかなか無私にはなれず、自分が先に出てしまう。そんな自我を努力や苦行で消そうとしても消せません。キリストの愛に覆い包まれてこそ、「わたしのもの」と主張する自我は消えます。そう気づきました。 (K・H)

礼拝讃美歌 478番(何ゆえ御神は かかる身をも)

先週ライブ配信された建徳の録音です。

(建徳 2020-11-22 T・M兄、K・H兄(20:34))