Ⅰテサロニケ1章1~10節:(あなたがたは)わたしたちに倣う者、そして主に倣う者となり(ました)と、パウロはこの手紙に認めました。でも、自分に倣う者になりなさいなんて、うっかり言おうものなら、なんて自惚れの強い人?自分がそんなに立派だと思ってるの?なんて言われるのがオチですね。
でも、パウロは随所で「わたしに倣う者になりなさい」と言っています(Ⅰコリ4:16,11:1,エフェソ5:1)。では、パウロが言う「わたしに倣う」とか「主に倣う」ってどういうことなのでしょう。
「倣う」とは、「模倣する」とか、「真似る」という意味です。それは「真似ぶ」から派生したといわれる「学ぶ」にも通じる言葉です。私が指導を受けたある合唱指導者は難しい発声法の勉強よりも良い歌手の歌をたくさん聴いて、その真似をしなさいと言いました。幼子は親の言葉や仕草を真似て成長します。信仰も同じです。信仰の先輩の真似をすることで成長するのです。この集会では毎月、その月の誕生者と召天者が紹介されますが、これはとても意義あることだと思います。
以前、テレビでプロの物まね芸人が、物まねのコツは、真似たい人をじっくり観察することだと言っていたのを思い出しました。上っ面だけを見て、誰でも気づくことだけを真似ても、本当に真似たことにはならないというのです。カウンセリングのコツも相手の表情をじっくり見て、その表情を真似ることです。そうすると、相手の気持ちが解ってくるのです。
だから、主に倣うということは、主をじっくり観てより深く知ることなのではないでしょうか。創世1:26にあるとおり、私たちはもともと、主に似た者として造られているのですから。 (N・H)
礼拝讃美歌 497番 (わがため十字架の 悩みと恥を)
先週ライブ配信された建徳の録音です。
(建徳 2020-11-15 N・H兄)