現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。 (Ⅰコリント5章1節)

 コリント教会には問題があり、それは信じられないほどです。某兄弟のしていることが一般に報道され、至る所で評判になっていました。自分の父の妻(実母ではなく義母)と関係を持っていたからで、異邦人の間にもないほどの淫(みだ)らな行いでした。レビ記20章11節によれば、2人は死刑に処せられるべきでした。ところが、コリント教会では彼を放置し、寛容さと称して何ら罰しなかったのです。理由は不明ですが、罰することができなかったのかも知れません。そこで、「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」(2節)と、パウロは言って、教会戒規として、除名処分を命じています。そうしないと、悪がパン種のように働いて、教会全体をダメにしてしまいかねないからです。

厳しい処置をするのは誰も好みません。黙認し、見て見ぬふりをする方が易しい。しかしパウロは、「わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、このような者を、その肉が滅ぼされようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」(4,5節)と、書きました。サタンに引き渡した、とは除名することです。この世はサタンと罪の原理が支配する所です。だから、教会から追放する除名はサタンの支配下に引き渡すことになります。キリストが覆い包む教会は、神の保護下にあるからです。止むを得ず教会から追放したのは、真の意味で、彼を罪から救うためです。キリストは、父の妻と関係を持つような彼のためにも死なれたのですから。罪を犯している魂への愛ゆえに、こうした厳しさが出てきます。悔い改めなくして、主に立ち帰る道はないからです。

これまでの経験から、除名という戒規が行われるのを見聞きしたことがありません。大抵、罪を犯した人は自分から去って行く場合が多いからです。その意味では、コリント教会の彼は罪の意識がなく、平然として礼拝に出席していたようです。そして、教会の兄姉も何も言わなかった。嫌われたくないし、関係を悪くしたくないからです。しかし、それをパウロは上記のように戒めたのです。多くの事を考えさせられます。